どん底だらけの人生 ~優等生・・・~
おはようございます。さて、本日から私の5度生き返った。を書いていきたいと思います。
結構、大変だったのですが今はこうやって生きてますし、
それなりにがんばっていますので、誰かのヒントになればと思います。
是非、お読みくださいませ。
「相川だな!覚醒剤取締法違反で逮捕する」私が逮捕された瞬間・・・こんなはずではなかったのに・・・・私が心で呟いた言葉である。
弔辞 児童会長 相川なお「先生・・・どこに行かれたのですか?寂しいです。いつも登校時に笑顔で迎えてくれた先生。
明日からあの笑顔は見られないのですか?今度いつ会えますか?・・・・・」
小学校の教頭先生が亡くなったときに、
当時学校の代表者として児童会長である私が弔辞にて述べた言葉である。
私は小学校6年生のときにスポーツ少年団(今は何て呼ぶかはわかりませんが)のキャプテンと児童会長(今では生徒会長というのでしょうか)を務めた。
私は幼いころ母親の姿が見えないとわんわんと泣きじゃくるくらい、母親が大好きだった。
父親は自営の職人で、野球と酒と博打が大好きだった。
家は貧乏だったが、精一杯の愛情をくれた両親だった。
保育園、小学校4年生のある日まで、ガキ大将だった私。
しかし、ある日の夕方、友達が
「拾われっ子!拾われっ子!」「川の下で拾われたなお!」「貧乏屋敷!」等と
私に向かって大きな声で叫ぶ。
私は意味もわからず、ただ悔しくてその場から走って家まで逃げた。家に着くと母親に私は泣きながら、いじめられた事を話す。
すると母親は泣くじゃくりながら私に母子手帳を見せた。
・・・・・ 私は養子だった。
その時は養子という意味はよくわからなかったが、ただ、私が理解できたことは、
「両親とも私の親ではない」と言うことだけであった。
「ごめんね・・・ごめんね・・・」母親が私に詫びる。
私の目からは大きな涙が溢れた。涙が止まらなかった。
それは、当時の私にとってすごくショックだった。すごく寂しかった。両親に裏切られたと思った。
その日以来、私は数ヶ月間いじめにあう。ランドセルに犬の糞を入れられたり、上履きをトイレ(当時、ボットン便所)に捨てられたり、学校の帰りは友達に罵声をあびせられる日々だった。。。
数日前まであんなに仲良く遊んでいたのに・・・・
私は友達も両親も全てが敵に見えた。
私は誰も信じたくない、私はこの世に必要のない人間だと思った。学校に行くことがすごく怖かった。登校拒否を何度もしようとしたが、当時、私は父親が怖く、仕方なく学校に行くしかなかった。
今、この場所からいなくなりたいのに、消えてなくなりたいのに・・・