敗戦前後・インフレ、新円 古川味噌店

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戦後~~新円に切り替えになってから現金のある人は預金させられてそれも一人当たり一カ月参百円だけしか払い戻しの制限がされて 預金の多く持って居た人は預金封鎖にあって随分と困って居たらしかった。それに日増し物価が上がって行く一方であって将にインフレの様相となって居た。 私は此の頃 金より物であると考えられて物を扱うのが商人の本命でもあろうと思われて居た。 預金の封鎖にあって一番困って居たと思われるのは金木町のNであったろう。彼は逸早く不動産を戦時中に二十五万円で売って 中里の知る辺を頼って貸し家に住んで居た。此の頃はNも借金もあって居たから何かと始末して残り分は少なくとも十五万円位は懐に入れて 預金の利子で充分安楽に中里で暮されて居たのに違いがなかった。初め中里へ来た頃は米一俵二十円足らずであったから十万円の利息だけでも優に五,六千円は懐に入る勘定でもあったが 決して無理な算段ではなかったが物価はどんどん上昇線を辿る一方であって初めの預金の山もだんだん切り崩されて僅かに三,四年の間に預金もかなり使われて居たでありましょう。 今又、新円と切り替えになって預金払い戻しは一カ月一人参百円迄となって居たから何うにもならなく随分と困って居た様で夜具などを背負って金や物などに換えなければならなくなって居た。 又、Nと同じくKさんは以前東京に在住して居た頃 自動車業を営んで居て彼の女は毎日丸まげ姿で御太鼓帯をなし家には女中を使って豪勢な生活をされて居て御得意先も貴族の人達や上流階級のお客様を相手として随分と良い商売がされて居りましたが大東亜戦に入ってから敵の爆撃の不安があって居たからでありましょう 十七年の終わり頃か東京にある全てを売り払って妻の郷里である深郷田へと疎開がされて居た。 Kさんは参十万円位を懐にして危険のない郷里で利息だけでも充分暮せると思って居たのに違いがなかった。 こちらへ来られた当時は米一俵も一七,八円か二十円足らずでそれが物価の上がる一方と新円の切り替えにあって僅か七,八年位の間に金の殆どが使い尽くされて居たようになって居た。 二十二年は更に農地の改革があって今迄小作されて居た農地は全部を政府が買い上げして小作されて居た人へ自作農資金で貸し付けし耕作して居た人の所有となって居た。買い上げされた代金は地主へ農地証券を発行して十ヵ年の期間で一ヵ年宛その十分の一が払われる事になって居た。政府の買い上げされたのが一反歩三,四百円位であって其の頃としては格別に安いほどでもなかったが 時が経つのに従って物価は上昇して行くのであったから一反歩の田は僅か米三,四升で売った様な結果となって先には財産税で吸い上げられ更に農地改革によって将に泣き面に蜂とでも云うべきではなかったろうか。 小作人の上にアグラして居た地主連中も本当に惨めな様に見られて居た。 ~~~~青森の無添加味噌と津軽特産漬物 天然醸造津軽味噌2k840円から、 津軽特産・と漬、紫蘇の実漬、茗荷漬等 www.kogawamisoten.com