いま歴史が面白い ~伝聞記述(津軽 古川味噌店)

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~本物を伝える事の難しさ PARTⅡ~ 古川 豊 ご存知ですか。日本の歴史の源泉が「太陽の照らす限り、どこまでも天照大神の土地だ」という本居宣長の説く「国学の精神」が、そのまま明治維新政府に継受されてきたことを。 この論理で、かって一度も征服されたこともない「未服の民」であった東北のみならず、北海道や沖縄さえも「近畿天皇が、平定し統一した」と史実や記録として、堂々とまかり通っている。しかもこの論理こそ、かってわが国の軍隊が朝鮮や中国へ侵攻したときの「皇軍の論理」でもあったのだ。「もともとは天照大神の土地だから、他国に対しても決して『侵略』ではないのだ」と。ヒドイ話だ。しかし、こうした論理が「日本の神話」としてではなく、日本の古代史として、つい最近まで「国の正史」としてまかり通っていたことが許せなかった。 とかく歴史というものは、戦いに勝った為政者によって書かれるものだけに、自分に都合の悪い事実は隠蔽され、都合のよい事実のみを書く傾向がある。その意味で『国の正史』と言わずに『国の正史(政治史)』と言うべきかもしれない。一度書かれてしまうと事実無根でも、ニセの作説でも、いつの間にか「真実の歴史」であるかのように簡単に信じ込まれてしまう。恐ろしい事だ。まさに明治政府の歴史も「天皇家中心の史観」に都合の良い事実だけを書き、都合の悪い「地方の歴史」を隠蔽したり隠滅したり、不問に付して来たに違いない。 近年、わが国のあちこちで、旧石器時代から縄文時代の遺跡が発掘されている。その出土遺品から見た東北地方は、決して「辺境」でも「陸奥・道の奥(みちのく)」「奥州」でもなく、まして「文化のはつる処」でもなかった。とくにわが故郷の青森県を中心に栄えてきた縄文時代の『亀ヶ岡遺跡』や『三内丸山遺跡』は「縄文時代で日本最大の人口密集地であり、日本をリードしていた文化都市だった」ことが公表された。 縄文社会を「その日暮らしの、貧しい原始的な社会だ」としてきたこれまでの歴史とはまるで違い「縄文人はオシャレで、アクセサリーをつけ、彩られた衣服を着ていた」ことに日本国中の人々が驚き、騒然となった。ただ地元の人々だけは、昔から聞かされていたし、多少の知識は持っていただけに、決して驚く事でもなかった。現に私共も幼い頃、裏の畑で拾ってきた出土遺品で、石蹴りなどして大いに遊んだものだ。いま驚くとすれば、ヤット世間に認められた、そのことの「あまりの遅さ」と、「本物を伝えることの難しさ」に驚いているだけだ。 だがこれが三内丸山遺跡のすべてではない。まだ発掘の途中に過ぎないのだ。これからの発掘にも大きな期待が寄せられているが、私共には三内丸山遺跡だけでなく、津軽には「まだまだ」日本の歴史を変え、震撼させるほどの遺跡が、地中深くねむり続けて、発掘の出番を待っているような気がしてならないのだ。 作家、太宰治が「津軽」の中で、わが故郷の十三湖について「浅い真珠貝に水をもったような、気品はあるがはかない感じの湖」「人に捨てられた孤独の水たまりである」と紹介しているが、この湖こそ、『壮大なるロマン』を掻き立てさせられる中世の幻の国際的港湾都市『十三港(とさみなと)』である。 神武天皇によって滅ぼされ、津軽まで逃げ帰ってきたという邪馬台国の王、安日彦、長髄彦の話。その子孫である安倍・安東一族の水軍の活躍は、発達した航海術によって、北はアラスカ、西はアジア大陸・マレー半島、東はアメリカ大陸、南は太平洋の島々を往還する長大なもの。その史実は1996年8月、メラネシアのバヌアツ共和国で発掘された土器が、約5千年前に青森県で作られた縄文土器であると断定されているし、カリフォルニアの学者も、コロンブスが大陸を発見する遥か以前に、日本と貿易がなされていた事実を証明している。 そのことは、十三港近くの亀ヶ岡遺跡で出土した、あの宇宙人のモデルにもなった「遮光器土偶」の中にも、南米のパナマでしか獲れないパナマ帽子を被ったものも出土しているのだ。毎年、十三港では「安倍・安東まつり」が催されているが、ときにはあの大物政治家だった故安倍晋太郎が、母を連れて参加していた姿もあった。安倍氏こそ、安倍・安東一族の末裔だったのだ。 三内丸山遺跡にしても、江戸時代からその存在は知られていたのだが、中央政府はこのあまりの『史実の違い』に「辺境の地方文化」として、それを認めようとはしなかった向きもあったようだ。 幸い1992年に県営の新野球場建設で発掘され、それが「あまりの大きさと、遺物の保存状態の良さ」に1993年秋、テレビ朝日が取り上げ、1994年7月には、朝日新聞夕刊が、「巨大木柱の発見」を記事にしてくれた。 折しも作家、司馬遼太郎が『街道を行く』シリーズで「北のまほろば」と題して執筆されてブームになったのだ。 『まほろば』とは「まろやかな盆地で、周りが山なみに囲まれ、物成りがよく、気持ちいい野のこと」そこは、もちろん大勢の人々が住みつき、食べ物も豊富でなければならなかった。縄文時代の東北地方は、今の気候よりももっと気温が高かったし、山には狩猟食料だけでなく、木の実もあり山菜の宝庫でもあった。 また、寒流と暖流とが交わる東北の海は、魚だけでなく海の幸の宝庫でもあったのだ。 だからこそ「北のまほろば」であっただろうし、事実、縄文時代の末期には、日本の人口の半分以上の人々が東北に住んでいたのだ(7万5千8百人中、3万9千5百人)。 その地に住む縄文人こそ、壮大な大自然とともに生き、豊かな暮らしをしていたにちがいないし、遮光器土器や漆器などを見れば、かなりの技術を持ち、高い文化をもっていた事も理解できよう。 だからこそ、私は重ねて主張したいのだ。考古学から観れば「東北は『辺境』でも『みちのく』でもない、日本をリードしていた文化都市だったこと」を。 今私共が、自然との共生、自然とのハーモニーを考え、環境問題を考えるとき、縄文人から学ぶべき事がなんと多いことか。これからも、発掘調査が行なわれ、新事実が発見されるであろう。その意味で縄文時代は、限りなく『大きなロマン』を秘めた物語なのだ。