東京都港区芝浦3-20 カンゼ芝浦レジデンス

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2駅4路線利用可、都心主要駅へダイレクトにアクセス 

 

所在地 東京都港区芝浦3-20

構造・規模 RC造10階建

総戸数 26戸(他1区画)

築年月 平成27年8月末(予定)

交通 JR山手線・京浜東北線「田町」駅徒歩8分

都営浅草線・三田線「三田」駅徒歩9分

間取り 1R、1K、1LDK

駐輪場 25台(1住戸1台)

特約事項 ペット不可、楽器演奏不可、SOHO不可

取引様態 貸主

【設備】防犯カメラ、TVモニター付インターホン、宅配ボックス、

オートロック、フローリング、エアコン実装、独立洗面化粧台、

浴室暖房乾燥機、温水洗浄便座、3口ガスコンロ(1K・1Rは2口)、

BS/CS110°アンテナ設置(契約別途)、CATV視聴可(有料ch別途)、

インターネットNTTフレッツ光(契約別途)

 

カンゼ芝浦レジデンス (カンゼシバウラレジデンス)

水と緑が共生する港区ベイエリアに誕生した新築高級賃貸マンション。

JR山手線・京浜東北線が交差する「田町駅」より徒歩8分、

他に地下鉄2沿線が利用できる「三田駅」も徒歩圏内です。

 

物件が所在するのは港区芝浦の穏やかな街並み。

通りを挟んで向かい側にはコンビニエンスストアがあり生活至便。

駅前にはレンタルDVDショップTSUTAYA、各種金融機関、

様々なジャンルの飲食店が揃っており暮らしやすい街並みです。

 

物件は1K・1Rタイプを中心に、ゆとりある1LDKまで

揃えたシングル向けの間取りラインナップ。

物件共用部には宅配ボックスを設置しており、

帰宅時間の遅い日にも宅配物が受け取れます。

1K・1Rの間取りにも浴室乾燥機・追い炊き機能を搭載。

一部住戸にはシューズインクローゼットを設置しています。

 

物件概要

物件名 KANZE SHIBAURA RESIDENCE

所在地 東京都港区芝浦3-20

交通 JR山手線「田町駅」徒歩8分

JR京浜東北線「田町駅」徒歩8分

都営三田線「三田駅」徒歩9分

都営浅草線「三田駅」徒歩9分

 

賃料 110,000円 - 153,000円

共益費/管理費 6,000円 - 8,000円

間取り 1R - 1LDK

専有面積 28.41m2 - 40.47m2

築年月 2015年8月

総階数 地上10階

総戸数 26戸

建物構造 RC造

通学エリア小学校 芝浦小学校

備考

【駐輪場】25台 1住戸1台※先着順

【インターネット】NTTフレッツ光利用可能

 

■芝浦の歴史について

江戸時代

自然豊かな海辺の漁村

江戸時代、芝浦は干潟であり、まだその土地すらありませんでした。

御府内備考には「海上の番船であるとか城米引舟の役などを引き受け、

海岸よりの網干城、漁村として下賜されていた」という記事が見られます。

 

明治時代

鉄道開通と行楽地としての発展

明治5年に新橋~横浜間に鉄道が開通すると、

芝近辺は発着地も近く風光明媚な土地の将来が注目されました。

温泉旅館や魚問屋から転業した活魚料理の料亭・茶店が軒を連ね、

海水浴場、花火や潮干狩りなどの行楽地、花街として賑わっていきました。

 

大正~昭和初期

埋め立て工事と新産業の発展

明治後半から始まった東京港湾の埋め立て拡張が進んだことで

芝一体の景色も急変しました。

その後、関東大震災の東京復興の資材運送などで賑わい、

生産業の移転や新興産業も増え、新たな街としての活気がましたようです。

 

戦後

芝浦花街の衰退

戦争のために、疎開、移転していた花街も戦後には復活しますが

地域の建物は東京都港湾局の所轄となり、

港湾労働者のための宿泊施設として管理されるようになりました。

この頃から芝浦は港町の産業・住宅地へと性格を変えていくのです。

 

現在

高層化する建物

高度成長期に入ると木造の和風建築がコンクリートのビルへと変わり

東京湾も近代化・機械化し、港町としての機能も弱くなりました。

住民も郊外へと移転し、オフィス街へと変わりました。

 

新名所、レインボーブリッジ

東京の新しい観光名所となったレインボーブリッジ

レインボーブリッジは、東京のウォーターフロントを

象徴する近代橋として、華ばなしくデビューしました。

架設場所は海岸三丁目から台場に至り平成5年夏に開通。

吊橋部が長さ918m、幅29mの鋼橋です。吊橋部は上層が首都高速、

下層部が臨海道路と新交通システム「ゆりかもめ」路線が

走るという重層構造になっています。

レインボーブリッジは宵闇迫る頃の景観が素晴らしく橋自体の

絵になる美観もさることながら、

橋上からのぞむ臨海市街地の七色の灯の帯が見る者を圧倒し

これまた「100万ドルの夜景」とされています。

 

歴史を伝える鹿島神社

鹿島神社は、かつては芝浦海岸であった

芝4丁目15番1号に鎮座している元村社です。

社頭には銀杏の若木が立ち入口左右には奇岩を畳んで狛犬を載せてあり、

往時の隆盛をしのばせるものがあります。

ただし、社殿拝殿は戦後に再建されコンクリート造です。

地誌『江戸砂子』に次の一文が見えます。

「鹿島大明神は、寛永年中、一社浪に漂て来るを此岸にとりあげたり、

これにもとづきて以前の小祠のその所を求めれば、

常州鹿島の一社なり、十一面はこれ鹿島の本地仏なり、よって此所に勧請すと云」

 

東京名所 芝浦鹿島神社

明治9~10年 三代広重

有名海水浴場としての芝浦海岸

往時の<芝浦海水浴広告>より芝浦の海水浴場は海浜にして

眺望絶佳古来観月の勝地として稲せらる。

 

芝浦の海水浴場は新鮮なる空気の流通宜しきを以て養生には適当の処なり。

芝浦の海水浴場は御望みならば料理をも取寄差上申すべし。

 

芝浦の海水浴場は浴場を

上等と並とに区別し浴客の便利に供す。

 

芝浦の海水浴場は旅館も兼業なれば滞留御養生の

便利あり万事御手軽を専一とす。

 

芝浦の海水浴場は外人常に来浴し賞賛して

日欧米諸国に於て海水浴場流行すれども

此の如き好地に設けある浴場は甚だ稀なりと。

 

田町駅北側、田町ビルわきの舟だまりを雑魚場(ざこば)という。

いまは埋立てられたが、この間まで入江に小舟が浮んでいた。

冬の朝、浜は、ノリの干し場に使われた。

水を含んだノリのおもてに、朝日の輝いている情景が、

国電車内からよく見えた。

江戸時代から残る、ただ一つの海岸線でもあった。

入江は、しかし年ごとにドブ池となり、ノリの漁場は沖へ遠のいた。

鹿島神社境内はアパートの窓と窓に取囲まれたが、横

町には貝がらがたくさん落ちている。 

 

芝浦の汐干

しばうら 芝浦 (港区)

芝ノ浦ともいう。

東京湾の港区側一帯を示す広域称。

文明18年の「廻国雑記」に「芝の浦といえる所にいたりければ、

塩屋の煙うち靡きてものさびしきに塩木運ぶ船どもを見て、

やりぬよりもしほの煙名にぞたつ舟にこりつむ芝の浦人」とある。

芝は中世から江戸湾の重要な湊で、

戦国期には小田原北条氏の水軍の一拠点であった。

江戸期は芝浦の名称は

「本芝町の東の海浜をいう。浜口・新橋より南、

田町のあたりまでの惣名なり」とあり、

雑魚場と号して漁猟の地であった。

ここでとれた魚は芝肴と称して、江戸市中へ出回った。

明治5年、芝浦海岸沿いに東海道線が開通した際、

海岸線を通るため埋立が始まり、現在は旧海岸線は

一面住宅地と工場が入り混じる地域に変貌した。