いま歴史が面白い (2)、(3)三内丸山遺跡、伝聞  

2012年 3月 17日(土曜日) 17:37

現に私共も幼い頃、裏の畑で拾ってきた出土遺品で、石蹴りなどして大いに遊んだものだ。いま驚くとすれば、ヤット世間に認められた、そのことの「あまりの遅さ」と、「本物を伝えることの難しさ」に驚いているだけだ。
だがこれが三内丸山遺跡のすべてではない。まだ発掘の途中に過ぎないのだ。これからの発掘にも大きな期待が寄せられているが、私共には三内丸山遺跡だけでなく、津軽には「まだまだ」日本の歴史を変え、震撼させるほどの遺跡が、地中深くねむり続けて、発掘の出番を待っているような気がしてならないのだ。

 作家、太宰治が「津軽」の中で、わが故郷の十三湖について「浅い真珠貝に水をもったような、気品はあるがはかない感じの湖」「人に捨てられた孤独の水たまりである」と紹介しているが、この湖こそ、『壮大なるロマン』を掻き立てさせられる中世の幻の国際的港湾都市『十三港(とさみなと)』である。
 神武天皇によって滅ぼされ、津軽まで逃げ帰ってきたという邪馬台国の王、安日彦、長髄彦の話。その子孫である安倍・安東一族の水軍の活躍は、発達した航海術によって、北はアラスカ、西はアジア大陸・マレー半島、東はアメリカ大陸、南は太平洋の島々を往還する長大なもの。その史実は1996年8月、メラネシアのバヌアツ共和国で発掘された土器が、約5千年前に青森県で作られた縄文土器であると断定されているし、カリフォルニアの学者も、コロンブスが大陸を発見する遥か以前に、日本と貿易がなされていた事実を証明している。
 そのことは、十三港近くの亀ヶ岡遺跡で出土した、あの宇宙人のモデルにもなった「遮光器土偶」の中にも、南米のパナマでしか獲れないパナマ帽子を被ったものも出土しているのだ。毎年、十三港では「安倍・安東まつり」が催されているが、ときにはあの大物政治家だった故安倍晋太郎が、母を連れて参加していた姿もあった。安倍氏こそ、安倍・安東一族の末裔だったのだ。
三内丸山遺跡にしても、江戸時代からその存在は知られていたのだが、中央政府はこのあまりの『史実の違い』に「辺境の地方文化」として、それを認めようとはしなかった向きもあったようだ。
幸い1992年に県営の新野球場建設で発掘され、それが「あまりの大きさと、遺物の保存状態の良さ」に1993年秋、テレビ朝日が取り上げ、1994年7月には、朝日新聞夕刊が、「巨大木柱の発見」を記事にしてくれた。
 折しも作家、司馬遼太郎が『街道を行く』シリーズで「北のまほろば」と題して執筆されてブームになったのだ。
『まほろば』とは「まろやかな盆地で、周りが山なみに囲まれ、物成りがよく、気持ちいい野のこと」そこは、もちろん大勢の人々が住みつき、食べ物も豊富でなければならなかった。縄文時代の東北地方は、今の気候よりももっと気温が高かったし、山には狩猟食料だけでなく、木の実もあり山菜の宝庫でもあった。
 また、寒流と暖流とが交わる東北の海は、魚だけでなく海の幸の宝庫でもあったのだ。

だからこそ「北のまほろば」であっただろうし、事実、縄文時代の末期には、日本の人口の半分以上の人々が東北に住んでいたのだ(7万5千8百人中、3万9千5百人)。
 その地に住む縄文人こそ、壮大な大自然とともに生き、豊かな暮らしをしていたにちがいないし、遮光器土器や漆器などを見れば、かなりの技術を持ち、高い文化をもっていた事も理解できよう。
だからこそ、私は重ねて主張したいのだ。考古学から観れば「東北は『辺境』でも『みちのく』でもない、日本をリードしていた文化都市だったこと」を。
 今私共が、自然との共生、自然とのハーモニーを考え、環境問題を考えるとき、縄文人から学ぶべき事がなんと多いことか。これからも、発掘調査が行なわれ、新事実が発見されるであろう。その意味で縄文時代は、限りなく『大きなロマン』を秘めた物語なのだ。
 青森の無添加味噌と津軽特産漬物の製造通販
天然醸造津軽味噌2k840円から、
津軽特産・と漬、紫蘇の実漬、茗荷漬等。はと麦商品の通販
www.kogawamisoten.com 古川味噌店

登録者:kogawamiso

カテゴリー: プレスリリース配信
プレスリリース配信 プレスリリースの一覧 いま歴史が面白い (2)、(3)三内丸山遺跡、伝聞